2013年08月30日
和泊図書館講座 湧水と生き物 大好評でした。
約20名が参加
昼からのツアーも約20名の参加でした。
昔の水に苦労した話なども伝えておきました。
沖永良部島は湧水を中心に集落が形成されています。島の歴史を語るうえで欠かせない分野です。
2013年06月08日
沖永良部島の集落紹介 屋者
屋者】(ヤージャ) 〔世帯〕45〔人口〕116
知名町南東部に位置し、東は余多、西は芦清良、北は
下平川に接し、南は太平洋に面する。平成6年からの
畠地基盤整備推進で畠は拡大されている。水に恵まれた
屋者は古来より農耕が盛んである。岩穴から湧き出す
水が豊富でおいしい水所として知られている。フリチゴー
ウコホー、ショーホーなどがある。
屋者には世之主時代の四天王「屋者マサバル」伝説が
残されている。先田政明著「知名町地名考」よりその
伝説を紹介いします。原文長文のため簡略します。
1400年代(室町初期)沖永良部島は世之主が治めて
いました。その家臣の四天王のひとりに「屋者マサバル」
がいました。琉球はその頃北山・中山・南山の三つがあり
沖永良部は北山に属していた。中山王は北山・南山を
滅ぼし「えらぶ」へ攻めてきます・古里の与和の浜の沖合い
まで着たとき、世之主が攻めか和睦かで、四天王を中山
の船にいかせます。和睦は白の吹流し、戦いだと赤の吹流し
が合図としていたが、四天王は敵に世之主の家臣と
いうことで歓待を受け四人は酩酊状態になる。島へ戻り
合図のことを西目国内平三が思い出し、泥酔状態で間違って
「赤」を上げる。これをみて世之主はもうだめだと思い自害する。
四人は責任は自分らにある切腹だト・・・しかしマサバルは「わしは
死なん、我々が死んだら世之主の墓は誰が作る、立派な墓を
作ることが霊を慰める」といい、四人は切腹せず、マサバルが
琉球に渡り石工を連れてきて内城に世之主の墓を作らせたという。
これが「屋者のマサバル伝説」である。
沖州会コラムより
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